毎週土曜日の22時から放送されているラジオ番組「福山雅治と荘口彰久の『地底人ラジオ』」(渋谷のラジオほか)。1月14日の放送では、福山雅治さんが上京当時の自身のエピソードについて語りました。
(画像:EPA=時事)
■18歳の福山雅治は地元を愛せなかった!?「長崎という街で燻っている自分が…」
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— 福山雅治 (@BROS_1991) January 14, 2023
「長崎の変」でクリエイティブプロデューサーを務める福山さんは、現在も公開されている動画「長崎の変 にゃんとかせんば対談」にて長崎県の大石賢吾知事と対談を行いました。
この動画では、福山さんと大石知事が長崎県の変化、現在抱えている問題、そして未来について徹底的に語り尽くすことに。司会を務めたのは荘口彰久アナウンサーでした。
福山さんは長崎から上京した当時のことを振り返り、「当時、僕は18歳で長崎を出たんですけど、長崎という街が好きではありませんでした」と話します。
「というよりも、長崎という街で燻っている自分が好きじゃなかったから、八つ当たり的に長崎という街が好きじゃないと思い込んでいたというのが正確な表現、説明ですね」と続け、かつて自分自身を好きになれなかったからこそ、地元も愛せなかったと話しました。
■福山雅治「自分が好きじゃなかったんです」衝撃告白に深い意図
「自分が好きじゃなかったんです。長崎の街にいる自分が」と話した福山さんは「まあだから東京の色んなのを探しましたよ。音楽専門学校とか」と明かします。
荘口アナウンサーから「そういうところに入ろうと思ってた時期があったんですね?」と聞かれると、「思ってた思ってた」と即答した福山さん。
「で、そういうところに入るために1番割の良いアルバイトって何だっていうことで、僕バイクが好きでバイク雑誌読んでたから、バイク雑誌の広告見ると、当時バイクの即配便ってのがちょうど出始めた時期だったんですよ。1980年代後半って。寮も完備してると。(給与も)結構高かった。25万円とかそのくらい貰える。で18歳から可能って書いてあったから、最初は、長崎にいた時は東京に行ってバイク便やろうと思ってたんです」と話します。
「東京に行ってバイク便やって、寮に住んでお金貯めて、音楽専門学校とか行こうかなと、ボヤっと思ってたんです」と、当時思い描いていた未来予想図を明かしました。
■即配便の仕事にあった意外な落とし穴とは!?
こうして東京に渡った福山さん。しかし、「実際に行ってみると、道も知らない奴が配達できるかっていう極々当たり前の疑問に」と話した通り、道がわからないという初歩的なことに気が付きます。
荘口アナウンサーが「今みたいにスマホとかもないから、これ」と指摘すると、「そう。長崎にいたから長崎の道は何となく知ってるから。そんなつもりで東京に行ったんだけど、『いやちょっと待て』と。『道知らんぞ俺』と。配達はできるかもしれないけど、即配じゃない。遅配しちゃうなと思って」と続けました。
「ちょっと無理かもと思って、同じ配達でもピザの配達に変えたの。狭いエリアだったらなんとかなるだろうと」と、上京当時の方向転換にも言及しました。
ネット上では、「長崎にゃんとかせんば対談、しっかり見させて頂きました」といったファンが続出したほか、「音楽専門学校に行こうかと考えた、って話、初めて聞いた気がする。私が忘れてるだけ?」「今みたいにナビとかないから、道知らないと確かに大変そう…やる前に気づいてよかったですねえ」といった反応も見られました。
上京当時の福山さんのレアなエピソードが聞ける放送でしたね。
この後には自身がプロデューサーを務める「長崎スタジアムシティプロジェクト」に関する想いも明かすなど、地元を出たからこそ芽生えた長崎への愛情が伝わってきました。
【番組情報】
福山雅治と荘口彰久の「地底人ラジオ」
https://radiko.jp/share/?sid=CBC&t=20230114220000
(文:横浜あゆむ/編:おとなカワイイwebマガジンCOCONUTS編集部)