2月24日、デヴィ夫人のYouTubeチャンネル「デヴィ夫人-Lady.Dewi Channel」では、デヴィ夫人が自身の生い立ちについて語る動画を公開。貴重かつ壮絶なエピソードに注目が集まっています。
(画像:時事)
■戦争直前に生を受けたデヴィ夫人の苦境
今回は「デヴィ夫人の解体新書 子供時代その1」と題し、デヴィ夫人の幼少期を振り返る企画が公開されました。
まずは生まれた場所について「東京都港区麻布霞町です。今は西麻布となっています。私、地名っていうのは絶対に残すべきだと思うんですよ。材木町とか、色々あったんですけど(現在はなくなってしまい)ちょっと悲しいですね」と語ります。
さらに、1940年に生まれたデヴィ夫人は「日本が戦争に入ったのが1941年だから、戦争が始まる一年前に生まれたことになりますね。私の子供の頃の思い出というのは、空襲ですね。空襲警報がウ〜って鳴ると、みんな防空頭巾を被って一目散に防空壕に走るんですね」と、戦争体験について語り始めました。
また、家族のことを聞かれると「父は建築業だったんですけど、あの頃の国民は消防団員をさせられていて、火消しの役目を仰せつかっていたようですね。当時は、とにかくお国のために鉄・銅を全部、政府に放出するくらい、日本には資源がなかったんですね。なので母は、やかん・金ダライと何から何まで放出させられたことを苦にしていましたね」と語っていました。
■空襲に食糧難…デヴィ夫人が壮絶な幼少期を激白!「母と弟を守るのは私」強い信念が芽生えたきっかけとは?
そして、東京大空襲から逃れるため、3歳頃に福島県の伯父さんの家に疎開したというデヴィ夫人は「疎開先が農業じゃなかったんですね。自動車のタイヤとか自転車を直す、小さい工場をしていたところで、ご飯には非常に苦労しました。線路脇の食べられるお野菜を全部引っこ抜いて、雑炊の具にしたり、そういう時代でした。とにかく日本国民は当時、食糧難でした」と振り返りました。
疎開先の福島県にも頻繁に空襲警報が鳴り、そのたびに住民は必死に走って竹藪に逃げ込み難を逃れたそうですが、ここでデヴィ夫人にとって、今でも忘れられない出来事があったと言います。
当時について「空襲警報が鳴って、母が弟を背負い、私が母の手を握って走ります。竹藪の中から、すでに逃げ込んでいた村人たちが『こっちへ来るな!』と叫ぶんですね。私の母は足が悪く(走るのが)一番遅くて、私たちがあまりに遅いので村人たちが必死になって『こっちへ来るな!敵兵に見つかったらどうする!』と叫ぶんです」と告白。
さらに「私たちが必死で竹藪の中に逃げ込むと、上空を敵機が飛行していきます。空襲警報解除のサイレンが鳴ると、村人たちがギラギラした目で私たち親子を囲んで『東京モンよ!お前らのおかげで、この竹藪が敵機に見つかったら爆弾が落とされるんだぞ!どうしてくれるんだ!』と、怒りに燃えた村人たちが私たちを囲み、母はおでこを地に付けて平謝り。怒りが収まらない村人が母に手をあげようとしたとき、わずか4歳だった私はパッと前に出て『触っちゃだめ!』と母を守りました」と、臨場感たっぷりに語っていました。
幼いデヴィ夫人の勇気ある行動により、村人たちは文句を言いながらその場を去ったそうですが、このとき心の中に「母と弟を守るのは、この私なんだ」という強い思いが芽生えたのだそうです。
■デヴィ夫人、不幸を感じた時に実践しているある事…壮絶な幼少期を経て得た強さ「もし自分が不幸だと思ったら」
さらに戦後の食糧難の中で、リュックになけなしの野菜を詰めて走っていたデヴィ夫人は、ある小さい男の子に呼び止められ、食べ物を求められたそうです。
この出来事をきっかけに「もし自分が不幸だと思ったら、さらに不幸な人のことを思えばいい」と思うようになったと話していました。
幼少期の壮絶な体験談を受けて、ネット上では「デヴィ夫人の強さの原点のような話。勇気ある行動に感動しました」「戦時中の大変な中、生きてきたデヴィ夫人を尊敬します!」「貴重な話をありがとうございました!続きも楽しみです」などの声が上がっていました。
幼少期に辛い思いをたくさん経験したからこそ、現在のように魅力的で芯のあるデヴィ夫人の姿があることにも頷けますね。
今後も貴重なエピソードが聞けることを期待したいですね。
【番組情報】
デヴィ夫人-Lady.Dewi Channel
https://www.youtube.com/watch?v=02KnHBfHVBA
(文:くる美/編:おとなカワイイwebマガジンCOCONUTS編集部)