<記事提供:COCONUTS>
映画『ベニスに死す』で美少年を演じたビョルン・アンドレセン。
(Screen Archives/Moviepix:ゲッティイメージズ提供)
ルキノ・ヴィスコンティ監督にその美貌を見初められ、世界一の美少年と評されましたが、実は壮絶な家庭環境で育ち、『ベニスに死す』出演後には性的搾取に遭っていたことを自ら告白しています。
映画『The Most Beautiful Boy in the World』邦題『世界で一番美しい少年』で、その半生を明らかにしました。
■両親の愛情を感じることなく育ったビョルン・アンデルセンの幼少期
1955年1月26日、ビョルンはスウェーデンのストックホルムで産声を上げますが、誕生直後から嵐のように壮絶な人生を歩んで行くこととなります
映画『世界で一番美しい少年』内でビョルン自身が「両親はいないも同じ」と語っているように、母は生まれた直後から祖母の元へビョルンを預け、ヨーロッパ内の各地を転々とします。
ビョルンは母のことを一言で「探究者」と表現しており、「ボヘミアンで芸術家、絵も描き、ジャーナリストであり、アートギャラリーを持ち、ディオールのモデルもやっていた」と話しています。
また、父の存在は“最大の秘密”としてビョルン本人はおろか周囲の人間にも隠されており、ビョルンは妹と2人で両親のいない幼少期を過ごしました。
さらに、そんなビョルンの母はノルウェー人の男性と再婚しますが、わずか4年で破局。
夫に捨てられたという苦しみからうつ病になっていた母は、ビョルンの暮らす実家に姿を見せてはふらっと戻ってきて顔を見せたと思えば、共に暮らすほどの時間も経たずに姿を消し、10歳だったビョルンが再び母を見たのは、自殺した後の悲しき姿でした。
■ビジネスにしか興味のなかった祖母…ビョルン・アンドレセンは意思のない“操り人形”へ
「祖母は孫の私を有名にしたがった」
これはビョルン自身が映画『世界で一番美しい少年』内で口にしていた言葉です。
両親からの愛情を直接感じることのない幼少期を過ごしたビョルンが、祖母の元で暮らしていたことは前述の通りですが、実はこの祖母もビョルンの「孤独」を感じ取ってくれるような存在ではありませんでした。
美容師だった祖母は本業での稼ぎだけでは生活が苦しくなり、当時から比類なきほどの美貌を持ち合わせていたビョルンを商売道具として活用するのです。
当時、青年となったビョルンは音楽にのめり込む日々を過ごしていましたが、祖母はビョルン本人の同意を得ることなく子役としてのオーディションにビョルンを送り込みます。
14歳で映画『純愛日記』に出演した当時のビョルンは、育ての親である祖母に歯向かうこと、そして本当の自分を伝える術を知りませんでした。
まるで祖母の操り人形のような日々を過ごしていたビョルンは、ヴィスコンティ監督がトーマス・マンの小説『ベニスに死す』を映像化するにあたり、1970年にストックホルムで行われたオーディションに参加させられます。
ヴィスコンティ監督はハンガリー、ポーランド、フィンランド、ロシアなど各地を転々としながら、映画『ベニスに死す』のタッジオ役に適任な、“完璧な美しさ”を持つ少年を探しており、ストックホルムで初めてビョルンの姿を目にします。
そして、この出会いが後のビョルンの人生をさらに狂わせることとなるのです。
■ビスコンティ監督との出会いと「世界で一番美しい少年」の誕生
ストックホルムで開催されたオーディションでビョルンが姿を見せた瞬間、その美貌に魅了されたビスコンティ監督は、その場で彼に上半身裸になることを命じます。
自らが同性愛者であることを公表しているビスコンティ監督の生々しさを感じさせる視線と、「上半身裸になって」という指示に耳を疑うビョルンの様子は、映画『世界で一番美しい少年』内でも実際の映像が使用されています。
客観的な視点を持って眺めるとある種の嫌悪感すら覚えるようなオーディションではあったものの、ビスコンティ監督はビョルンをタッジオ役に適任な人物だと確信します。
こうしてビョルンは一瞬にして世界的名監督のお眼鏡にかなった俳優となりますが、当時ビョルンの家庭教師を務め、映画『ベニスに死す』の撮影にも同行していたミリアム・サンボルが、映画『世界で一番美しい少年』の中で「ビョルンは物語を説明するための存在で、ビョルンのための物語ではなかった」と説明した通り、ビスコンティ監督にとってビョルンは1人の人間ではなく、“絶対的な美”を象徴する存在でしかなかったのです。
そして1971年3月、ロンドンで開催されたロイヤル・ワールド・プレミアの後、ビスコンティ監督はビョルンのことを「世界で一番美しい少年」と表現します。
この言葉は生涯にわたってビョルンとは切っても切り離せない存在となります。
■「世界で一番美しい少年」は“用済み”に…ゲイ・コミュニティで遭遇した数々の性的搾取
ビスコンティ監督によって発せられた「世界で一番美しい少年」という表現で、ビョルンの名前とその美貌は世界中に知れ渡りますが、ビスコンティ監督は撮影の中でわずかながらも徐々に歳を重ねて行ったビョルンに価値を見出せなくなっていました。
ロイヤル・ワールド・プレミアから2カ月後、映画『ベニスに死す』はカンヌ映画祭で上映されますが、そこで行われた会見にて、ビスコンティ監督はビョルンの理解できないフランス語で初めてビョルンを見た時の衝撃の大きさを表現すると同時に、「今はすっかり老け込んだ」などとこき下ろします。
ビョルン自身も「役目は終了した」と感じていたことを認めており、ほぼ同性愛者で固められたスタッフに対して「坊やを好きにしていいぞ」とビスコンティ監督が言ったように感じていました。
何も知らない純粋無垢だったビョルンは、初めてゲイクラブに連れて行かれた時のことを、「あんな経験をしたことは一度もなかった」と振り返っており、当時の周囲の様子を「欲望に燃えた貪欲な目、濡れた唇、うねる舌」などと表現しています。
その後、“用済み”となったビョルンには俳優としてのステップアップコースが用意されることはなく、ビスコンティ監督によってパリの富裕層で固められたゲイ・コミュニティの中に放り込まれます。
その中で何が起こっていたのか、これまでにビョルン自身は具体的なエピソードを証言したことはありませんが、生活費やプレゼントと引き換えに数々の性的搾取にあっていたことが明かされています。
こうして心に深い傷を負ったビョルンですが、当時のビョルンの周囲には味方になってくれるような存在はいなかったのです。
■祖母に勧められて日本へ、「まるで地獄の大混乱」と称した過酷な活動
性的搾取で心に傷を負ったビョルンに追い討ちをかけるかのごとく、ビジネスにしか興味のなかった祖母は、映画『ベニスに死す』で爆発的な人気が出ていたビョルンを日本へ送ります。
実はビョルンの美貌は、日本にとある大きな影響を及ぼしていました。
『ベニスに死す』が上映された翌年にスタートした池田理代子作の漫画『ベルサイユのばら』。
この主人公で男装の麗人・オスカルのルックス上のモデルこそがビョルン。
(オスカルのビジュアル参考画像:時事/漫画『ベルサイユのばら』最新刊発売を宣伝する懸賞旗)
池田先生自身がビョルンをモデルにキャラクターデザインをしたことを映画の中で語っています。
男性として育てられたオスカルを、幼少期から一人の女性として愛し続け、生涯を捧げる男性の名前が「アンドレ」なのは偶然ではないでしょう。
当然ビョルンの来日は大フィーバーに。
高度経済成長期にあった日本ではテレビへの出演やCM撮影、さらには日本語で歌を歌って実際にリリースされるなど多忙を極め、スケジュールをこなすために薬物を口にしながら働かされていました。
映画『世界で一番美しい少年』の中で当時の経験を「まるで地獄の大混乱だった。そもそも自分のためにやったわけではない。祖母にしつこく言われたことが要因だ」と話したビョルンは、その後徐々に表舞台から姿を消していきます。
■「孤独」と「闇」とは切っても切り離せないだったビョルン・アンデルセンの生涯
2016年に映画『The Lost One』で主演を演じた際のビョルンは既に白髪の長髪をなびかせ、口にも白髪の髭をたくわえた姿に変貌していました。
そして2021年に映画『世界で一番美しい少年』が発表され、ビョルンはここで書き記したきたような過去の苦しみを自身の口で詳細に表現することとなったのです。
幼少期の壮絶な家庭環境から始まり、映画『ベニスに死す』で一躍世界のトップスターになったかと思いきや、その裏では性的搾取の被害に遭っていたビョルン。
「孤独」、そして「闇」とは切っても切り離せない関係にあったビョルンの今後の人生が、どうか平静と安らぎに満ちたものであるようにと願わずにはいられません。
(文:横浜あゆむ/編:おとなカワイイwebマガジンCOCONUTS編集部)